聖母マリア様 | |
イエス様とマリア様 | |
本日はわたしの事をおよびくださり誠にありがとうございます。そして、私の愛の光を皆様と分かち合う事が出来るように、様々な取り計らいをしていただいた事を心から感謝いたしております。 これからも皆さんの心の中にある神聖な愛の力、そして人を愛するために必要とされる叡智を皆さんと共に分かち合いたいと思います。 本日は、マリアの、そして「神聖なる聖母の愛」が持つ2つの側面についてお話させていただきたいと思います。 一つは勿論【神聖なる愛】、これは、私マリアが、イエス・キリスト様を生み育てた時に、皆さんに示した、母が子供を思う気持ちです。 皆さんには、充分知られておりませんが、イエス様が私をとうしてこの世に生まれてから成長する過程において、とても多くの苦難がありました。それは彼の偉大なる光を守ろうとする「聖なる存在」とその成長を阻もうとする存在たちによる争いの歴史と言っても良いかもしれません。 イエス様は幼い頃より、とても感受性の強い子供でしたので、夜も何かにおびえて泣いたり、身体の様子をおかしくする事がありました、そのときには、いつも偉大なる天使様たちが、おそばにおられて、イエス様の魂をしっかりと守られていたようでした。 勿論人としての智慧しか持たなかった私は、薬草を飲ませてあげたり、身体を暖めたり、清めの薬草で身体をふいてあげたりすることしか出来ませんでした、それでもどうしようも無い時は、最後は、偉大なる主に、涙と共に祈りを捧げる事しか出来なかったのです。 私は偉大なる主に全てを託しました、「あなたの御心に、私とイエスは従います。あなたを信じ、あなたと共に在るようにいたします」私は涙ながらに祈っていたものです。 イエス様が少年時代の時もそうでした。彼の周りで様々な奇跡が起こり始めたとき、貧しい家庭であった私達は、周りの人からも様々な思いで見られていたようです。 けっして、皆さんが私達のことを理解し、温かく迎えてくれる人たちばかりではありませんでした。多くの皆さんが、何か怪しいもの、不思議なものを見るような目で私達を見て、様々なうわさを流しました。時には、石を投げられたり、お付き合いを断られる事もありました。 そのような時もイエス様は、歯を食いしばって耐えていたようです、その頃のイエス様は、これから自分に起きるであろう事を少しずつ理解し始め、自分の成すべき事に対して、真剣に取り組む様子を見せ始めておりました。 しかしイエス様も人の子として生まれた以上、すべてのことを理解する事は到底できません。自分意起こっている奇跡や体験に戸惑い、そして周りの方たちの反応に心を悩ませていたようです。 そのような時も、私は、イエス様のそばに寄り添い、彼の悩みを聞いてあげることしか出来ませんでした。そして、私共の心の中にいつもおられる、偉大なる主に共に祈りを捧げました。 イエス様が青年時代を迎えられると、彼は偉大なるマスター達を求めて、旅に出ることになりました、それはとても危険な旅です。目に見える災いも目に見えない災いも起こってきます。 勿論私は、主を信じております。主がイエス様に学びにいきなさいと言えば、誰もそれを止める事は出来ません。イエス様も私も従うばかりです。 主は私にこういわれました「イエスは、偉大なる魂の持ち主である。彼の魂は、主である私と共にある、たとえその身がどれほど傷つこうとも、その傷さえも彼にとっては大切な学びとなる。私とイエスを信じなさい。」 私は、その言葉を信じ、イエス様がいないときも、毎日祈りを欠かす事はありませんでした、そして、イエス様が、旅に出た時に不自由する事があまり無いように、一生懸命に働いて、お金を蓄えるようにいたしました。 イエス様が、我が家に戻られたときは、私達は、静かに涙を流しながらその帰宅を喜んだものでした。イエス様は、尊い主に捧げられた子供であると私は思っております。そのような、偉大なる魂を、私のもとに遣わしていただいた事に、心から感謝を捧げております。 そして、イエス様が人としてこの世にある限り私は、イエス様のことを大切にしたいと思っております。 しかしながら、イエス様の最後の時、ゴルゴダの丘で十字架に架けられた時は、私の心も魂もその耐え難い悲しみと苦しみで気を失わんばかりでした。 イエス様はその前日、私達のもとにいらして、いつものように笑い、私達を気遣ってくださりました。そして私達が末永く幸せでいられようにと祈ってくださりました。それが、彼の別れの挨拶だとも、私共はきづかずに・・・ そして翌日。十字架に架けられたその姿を見て、私は泣き叫ばんばかりの心で主に訴えました。「なぜイエス様が処刑されなければいけないのか、主はイエスの魂はいつもあなた共にあるといわれたではないですか。」 主は私にこう語られました「マリアよ、あなたの心の中にイエスは生き続ける。イエスは、自分の魂をさらに高めるために、そして、迷える多くの魂達の悲しみや苦しみをその身をもって解放させるために、処刑される事を選んだ。そしてマリアよ、あなたの魂も子供を失ったその苦しみ悲しみを充分に味わい、枯れるほどの涙を流すが良い。その流した涙と、悲しみの声によって、自分がどれだけ子供を愛していたか、その気持ちに気づくであろう。その子供に対する愛こそが、私達、主が人であるあなた達を思う気持ちなのである。」 私はそのとき、悲しんでいるのは、私だけではない事に気づきました、そしてイエス様が自分の心の中で生き続けてくださることも。 イエス様が再び現われてくださったのは、私の心の中でした。イエス様は、神々しいお姿で、私に微笑みかけてくださいま した、私はそれだけで、主もイエス様も、正しい事をなさったのだと言う事に気づきました。 イエス様はこう語られました。「あなたが私を生み育ててくれた事に深く感謝いたします。あなたは、私の心をとても豊かな母親の愛で満たしてくださりました。私はあなたの「愛」なくしては生きていけなかったでしょう、私が、多くの人々を助けたのではなく、あなたの母親としての神聖なる愛こそが、私を支え、多くの人の苦しみや悲しみを解放し、生きることの喜びと大切さを教えてくれたのです。 私は、心からあなたの愛に感謝します。あなたの子供として生まれてきたことを、何よりも誇りに思っております。」 その言葉を聴いたときに、私は、主とイエス様への信頼と感謝の気持ちでまた涙を流しました。しかしそれは、子供を失った悲しみの涙ではなく、子供を心から信じ愛する事ができた母親としての喜びの涙です。 どうか皆さんも、私の喜びの涙から生まれた【聖母の愛】をお受け取りになられてください。 そして、皆さんの誰もが、心の中にもたれている愛にきづかれてください。 |
|
|
|
|